個人モデルと社会モデル

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私は、生まれつき視力が少し弱かったのだが、小さいころから、目が悪いと、なにか、自分が悪いことでもしているかのように周りから思わされてしまうところがあった。

例えば、本を読む時などでも近くにしないと読めないのだが、「もっと離して読みなさい」とか、テレビを見る時も、もっと遠くで見なさいとか、黒板の字が見えない時なんかも、なんでこれが読めないんだとか。

とにかく、目が悪いのは私のせいじゃないのだが、目が悪いってことを、自分が悪いことをしているかのように言われてしまう。だから見えるふりをしたり、黒板の字が本当は読めないのだが、それを口にすなおに出して言えないような雰囲気にさせてしまうのだ。

子供のころは、これで、すっごく傷ついて来たように思うし、結果として無口で消極的な性格になっていってしまったのかもしれない。まあよく言えば「しゃい」でおとなしい
性格ということになり、、悪く言えば、はきがなく無気力な人ということになってしまうのだろう。私の子供のころはまあそんな風に他からは見られていたのだと思う。

でも考えてみると、同じようなことは他にも多くある。耳が悪かったり、足が遅かったり、文章を読んでもなかなか理解できなかったり。だが、そういうことはその個人の責任でなったのでもなく、親の責任でもない。ましてや前世になにか悪いことをしたためでもない。

ところが、周囲はあたかもその個人に責任を負わせてしまう「雰囲気」をつくり出してしまう。

または、障害にともなう社会のバリアを乗り越える努力を本人だけに負わせてしまったり、もしくは家族にその負担を負わせてしまう。

私は、そういう雰囲気をこの社会全体として作ることが一番よくないのだと思う。

障害学では、これを「障害の個人モデル」と呼んでいる。
つまり社会モデルとは反対の言葉であり考え方だ。

人は皆違うんだから、違うのがあたりまえなんだということが、皆が認め会えればいいんじゃないかと思うのだが、なかなかそうはとんやがおろさない。異質なことはなかなか受け入れないのだ。

東日本大震災の被害にあった個人にその責任を全て負わせるのと同じなのだ。
大切なことは、震災に備えた街づくりをすることであり、福島第1原発事故を2度と起こさないようにすることなのだ。まさにこれが「社会モデル」の視点であると思う。

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